シリア・ヨルダン(2008年4月)
ローマ劇場
のようなものを、少しずつ(記憶が薄れぬうちに?)書いてみようと思う。
というのも、

ん?
半円形劇場っぽい?
と思われ、
シリアやヨルダンで見たローマ劇場が思い出されたというわけなのです。
◆ ボスラ(シリア)

保存状態も良く、
上階に列柱廊がある劇場は、ボスラにのみ現存。
中東で最高美の劇場と言われています。
観客席は約15000人収容できる とか。
足がすくみます。
古代の人は平気だったのかしら・・・
←作り笑い
音響効果も素晴らしい。
その音響効果が、どれほどスゴイかを証明します。
と、添乗員が下に降りていき
♪昔ギリシャのイカロスは 蝋で固めた鳥の羽根~♪
と、「イカロスの歌」を歌いました。
確かに、スゴカッタです。
我々のほかに観光客(外国人)が何組かいる、その中で歌うという、その度胸も。
恐る恐る、そろりそろりと、やっとの思いで下まで降りました。
(恐くて、どうしても階段を降りることが出来ない人には裏道があるようでしたが
その様子を上から見ていた外国人観光客が我々に、歌え♪ と。
リクエストに応え、「さくらさくら」を歌ったのでした。
(旅に出ると、気が大きくなりますね~
「無謀」と「臆病」の中庸は・・ 「勇気」 とか。
「イカロスの歌」は、「勇気一つを友として」が正しい題名らしいです。
詳しくは、こちらをご覧ください。
関空 ⇔ ドバイ
ドバイ(アラブ首長国連邦)まで11時間45分・・ さすがに遠い。
* 4月6日
06:00 ドバイ到着 (-5時間の時差
08:00 乗り継ぎでアンマン(ヨルダン)へ約3時間のフライト
( 関空 → ドバイより良い機体でした。考えてみたら、これも国際線でした。
離陸後、左側に有名な(?)これが見えました。
真夜中ですけど・・・
って、ドバイ時間では夕方の7時過ぎなのね。
(日本時間の9時頃
美味しかったです。
さて。
夕食のサービスも終わり、機内も暗くなり、乗客は眠りについてしまう・・
客室乗務員は何をしているでしょう。
夜中。
トイレに行くと・・ ギャレー前で寛いだ様子でお喋りをしていていました。
私がトイレから出ると、待ってましたとばかりに、此処へ座れ・・ と。

(ワンプレートのエコノミーとは大違い・・・
私、ご相伴に与りました。
寿司とミニケーキ(3種類)
ごちそうさまでした~♪
右側の乗務員は帰国便(4月13日)にも乗務していました。
見覚えのある顔だな・・ アンマンに行く飛行機だったかしら・・ と、思案しながら席につくと
☆貴女のこと、覚えているわ。
日本からの飛行機で一緒だったでしょ。
sushi と cake を食べて、写真を撮ったわ。
★ああ、そうそう、そうだったわね~♪
楽しかったわ~♪
シュクラン♪
(★ = アヤシイ英語
* 4月13日 02:35 EK316 ドバイ → 関空 (約10時間
ヨルダン、シリアとアラブ首長国連邦は、-1時間の時差があります。
トランジットで約5時間もドバイ空港にいました。
とーーーーーーーーーーーっても広い。
が、ショッピングに興味のないものには、全く面白くも楽しくもない空港です。
沸騰都市ドバイ・・ ダイジョーブなんでしょうか?
古代オリエントの大地
الجمهوريّة العربيّة السّوريّة

緑 : 美しい大地(ファーティマ朝
赤 : 国を守る剣(殉教者
白 : 国民の善(ウマイヤ朝
黒 : これまでの戦い(アッバース朝
ヨルダン・ハシミテ王国
المملكة الأردنّيّة الهاشميّة

”アッラーの他に神はなし”
赤い三角 : 聖者マホメット(大アラブ革命を表現
黒・白・緑の3色 : 古代王朝を象徴
(アッバース朝・ウマイヤ朝・ファーティマ朝
かつて、
アジアとヨーロッパを結ぶ場所として重要な位置を占めてきたオリエントの地。
通商ルートの変遷によって栄枯盛衰した隊商都市・・
人の世の儚さを感じずにはいられません。
2時過ぎ、ヨルダン国境の町・シャビールをヨルダンのバスに乗ったまま出国。
30分後、シリア国境の町・ナシーブに入国。
ここでシリアのガイドが待っていて、
バスは、このまま走ってボスラを観光し、今日の宿泊地ダマスカスまで行くという。
暫く走るとガスステーションがあり、延々とトラックやバスが連なっている。
その列の後ろに我々のバスも・・・
★なんなのー 出発前に満タンにしてくるのがジョーシキでしょー
★ヤダー コショーしちゃったのー
シリアのガソリンの値段は、ヨルダンより安いそうで、
(どれくらい安いかは聞きませんでしたが
ヨルダンを出国するやいなや、シリアで給油するトラックやバスが延々と・・・
ところが、ヨルダン出国の際、係官が給油口に鍵をかけるらしいのですね。
その鍵を壊して、ジョーロみたいなのでガソリンを入れている。
★ちょっとー こんなことでは何時間かかるかわかんないよー
我々のバスは列を離れ前方へと進み、スムーズ(?)に給油し出発となったのでした。
店の人に袖の下を渡し、先に給油させたらしいのです。
(幾ら渡したかは聞きませんでした
添乗員が言うことに、
その袖の下は現地旅行社の負担で、
燃料代を安くあげようとして返って高いものについたと思う・・ と。
ヨルダンのガイドとドライバー
陽気で気のいい2人だったので、ちょっと気の毒だった。
でも仕方ないね。
自業自得・・ と言ってはアレですけど、そう上手く事が運ばないのが世間というものであーる。

こんな砂漠の道を
隊商都市を自由に行き来した時代ならいざ知らず、

駱駝や馬で・・ ってことは今更、無理なわけです。
しかし、それもいいかもね・・・
ワタクシのHNは、「キャラバンサライ」の「サライ」であるからして憧れは・・ 当然あります。
薔薇色のぺトラ ∽1
ペトラの歴史は紀元前7000年にまでさかのぼる。
紀元前13世紀にはエドム人、紀元前6世紀頃に、アラビア半島(現在のイエメン辺り)からナバテア人が移住し都市を築く。交易路の中心に位置し、隊商貿易で繁栄を極め、紀元前3世紀には約3万人の人口となり、紀元前1世紀にかけては最盛期を迎えた。紀元前106年、ローマが占領。その後、隊商の中心はパルミラに移り、ペトラは衰退する。1812年、スイスの探検家ブルクハルトが発見するまでは、ベドウィンが住むだけの忘れられた地であった。
町(ペトラ)に入る唯一の入口
狭いね~
高さ約100mの岩に囲まれたシーク・・
ワディ・ムーサ(モーゼの谷)の川の流れが砂岩の山を侵食して造った、1260mの聖なる道。
シークを抜けると、
確かに薔薇色!
確かに凄い!
遥々来た甲斐があった~♪
紀元前2世紀から紀元後1世紀の間に造られた、
薔薇色の砂岩壁面を掘りぬいた、高さ約30mの神殿風正面を持つ霊廟。
*中央に壷
*両側に権力の象徴である鷲
【上段】
*中央はイシス神(生と死の女神
*両側にアマゾネス
【中段】
*儀式に使うワイングラス
【下段】
*霊廟への入口
*両側に「馬に乗った死の神」
そして道は・・・
まだまだ延々と続くのである。
薔薇色のペトラ ∽2
*アーンの墓
*シルクの墓
*コリント式の墓
*宮殿の墓
さらに歩く・・
凱旋門の向こうに、
*カスール・エル・ビント(ナバテア人が唯一石を積んで造った神殿
が見える。
昼食後、さらに歩く・・
振り向けば・・・・
よくぞこんなところまで・・・
やっと来ました・・
ペトラの至宝
ペトラ最大の葬祭殿(1世紀中頃
ナバタイ人は死後の世界を信じ、階段は天国への道 とか。
さらに登る・・

ペトラの山々の大パノラマ・・
とはいうものの・・・ ぐ っ た り なのである。
そして道は・・
まだまだ続くのである。
というか、同じ道を帰るわけだが・・・・
薔薇色のぺトラ ∽3
再び辿る長い道のり・・
おおらかだねぇ~
ワカモノも、さすがに疲れるらしい。
ペトラ名物(?)の『サンドボトル』
色々な色の砂を、漏斗のようなもので瓶の口から入れていき絵を描く。行きに頼むと、帰りまでに名前(アルファベットorアラビア文字)を入れてくれる(勿論追加料金をとって)という。そのことを聞くや、皆さん我先にと自分の名前を言い始め収拾がつかなくなる。集団心理とは恐いものである。
帰りにゆっくり買えばいいや・・ と、集団を離れるもの2、3名。帰りに寄り、一番小さいのを5個買う。
さて。
この砂絵のオジサン
★ 「アナタノコレ ニホン イクラ?」 ・・私の持っているバックを見て
☆ 「10ドルくらい」 ・・適当に
★ 「コレ50ドル アナタ バック チェンジ プリーズ」 ・・大きなサンドボトルを手に
☆ 「ノー!」 ・・そんな大きなボトルなんか要らないので
★ 「プリーズ!プリーズ!」 ・・不満と思ったのか、なお大きなボトルを手に
やれやれと疲れきり、シーク入口(出口)を出る。
朝は気が付かなかった(まだ開いてなかった?)お土産物屋さんが数軒あり、ここでは1ドルで売られているのだった。
3個買う。
中の絵も崩れておらず綺麗です。
5ドルの方か、1ドルの方か・・ 不明・・・・
そんなこんなで、ペトラの一日は暮れていったのでありました。
死海遊泳・・ というか、浮遊
【死海】
世界で最も低いところにある湖。
流れ込むヨルダン川が年々細くなっているため、湖は急速に小さくなっている・・ とか。
現在、海抜-409m 塩分濃度33%
普通の海水の塩分濃度は3%ということだから、その塩っぱさは推して知るべし!
ペトラからアンマンに向う途中、海抜0㍍地点に立つ。
← YOU ARE HERE
この地図では、海抜-390mとなっている。
(砂漠化が進んでいるんだね


新聞を広げてプカ~リプカ~リ
浮いているのは簡単だが、立ち上がるのは一苦労。
足を水底につけようとすると、ひっくり返ってプッカプカ~
ひっくり返ったり・・ プカプカしたり・・
なんとか波打ち際に辿り着き、
お肌に良いという「泥」を海底(湖底?)から手探りで掬い取り、
顔や体に塗りたくって・・ ハイ!ポーズ♪
暫く後。
シャワーで適当に泥を流し、真水のプールにドッボーン!
泳ぐでもなくプールに浸かり、泥を洗い流す。
お風呂(湯船?)文化の日本人ならでは・・ の所業である。
あらま、本当にツルツルスベスベ~♪
その後、1時間くらいはツルツルスベスベしていたので
black mud soap
with
dead sea minerals という石鹸を1個、土産とする。
BACDAD CAFE
バディアと呼ばれるシリアの土漠
なーーーーーーーーーーーーーんにもない道に、ポツンと佇む「バクダット・カフェ」
此処はシリア・・ なのに、何故にバクダット?
シリアは、アメリカ政府によってテロ支援国家に指定されていますね。
しかし、特に「怖い国」という印象はありません。
(旅行客にとっては・・ という但し書きを付けるべきかもしれませんが・・・・
その「BACDAD CAFE」で暫し休憩。
外へ出ると、従業員(?)らしき男性が、コッチヘ来いと手招きをする。
何かお土産でも買えと言うのかな?
まいいか、、、、
と、ハンサムなオニーサンについて行ったのでした。

自分たちの寝場所のようでした。
カーペットが敷かれ、隅っこに畳まれた幾組みかの寝具。
壁に架かる時計が金色に輝き、
私たちとは違う時を刻んでいるかのようです。。
そして今。
ベドウィンの人々の刻む時は、我々のソレとは「確かに違っている」と思えるのでした。
مع السلامة ma'a as-salàma
パルミラ ∽1

アラブ城より望むパルミラの全貌
【 パルミラ 】 (古代名:タドモル
ナツメヤシの町という意味を持ち、
シルクロード最後の難所であるシリア砂漠越えの中継地として栄えた。
紀元前3世紀から紀元後3世紀が最盛期。
267年、ローマ帝国に人望厚かったオデナトゥス王が暗殺され、王妃ゼノビアが女王となる。
272年、ローマ帝国によってパルミラは破壊され繁栄は幕を閉じる。
パルミラ ∽2
金曜日・・ ということは、イスラムの人々は安息日である。
しかし我々は、朝も早くから博物館に行き、
5万年前の洞窟、ベール神殿の模型、神々の像、モザイク、ゼノビアのコイン
戦争と平和の神であるアッラート神の彫像、お墓の蓋 ・・ 等々の見学、及び説明を聞き
いざ、パルミラの遺跡へ!
約300体収容できるパルミラ貴族の墓
103年建立 地上4階・地下1階 約300体収容
昨夕、
パルミラの全貌を望むべく登ったアラブ城が遥か後方に見える。
←こんな感じを見ながら歩き・・・
逆光の
【 ベール神殿 】 到着
約390本のコリント式の柱が囲む。
その昔、
毎年4月6日、主神ベールの神像を駱駝に乗せて町を練り歩き、神殿の周りを7周した後、100頭~300頭の動物を生贄として捧げたとか。
動物が通った巨大通路と生贄台も残っている。
栄華を極めたパルミラの道は、まだまだ続く・・・・・
パルミラ ∽3

↓
公共浴場 → 円形劇場(1500人収容) → アゴラ(取引の場)
町の中心であるテトラピロン(4面門) → アスワン産の花崗岩の柱
破壊されたゼノビアの柱(名前のみ残る) → バールシャミン神殿(天候の神)
ピクニックに来ていた子どもたち
(@円形劇場
歩いて・・ 歩いて・・・
やっと昼食のレストラン(Gate of PALMIRA)に到着。
なんだかもうグッタリで食も進まず・・・
さて。
中東の「3P」と云われる「ペルセポリス:イラン」「ペトラ:ヨルダン」「パルミラ:シリア」
とりあえず制覇したわけですが・・・
どの遺跡も広大で、過去の栄華が偲ばれます。
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